会長挨拶・コラム COLUMN
平成25年1月:和の得
佐賀の地で日本理療科教員連盟が産声をあげて60年が経った。人で言えば還暦に当たるので生まれた年(1952年)の干支(壬辰=みずのえたつ)に還ったことになる。
干支は、十干(甲乙丙……)に十二支(子丑寅……)が順次、組合わされてできるので最初の甲子(きのえね)から癸亥(みずのとい)まで一巡するのに60年かかる。「還暦」の謂われだが、「人生60年で赤子に戻って来し方、行く末を考えなさい」という原点回帰の教えと心得る。慢心しやすい人間への戒めでもあろう。循環を重んじる東洋思想の妙といっていい。一直線型の西洋の進歩観では生まれてこない知恵である。
その年輪を刻んだ理教連だが、結成の気運が胎動する前史を『理教連二十年史』にひもとくと、誕生のエネルギーが戦前戦後の鍼按教育を担った教員たちの希望と使命感だったことが窺える。
結成後、理教連は、全国盲学校長会と連携しつつ、当時の文部省を動かし厚生官僚を巻き込んで理療教育の課題を次々と前進させていった。教育課程の改善、学術研究の推進、病院マッサージ師の待遇改善、産業マッサージ師の職域開拓、理学療法科の盲学校設置等々、足跡は枚挙にいとまがない。
このような先人の努力の上に、「理療」という視覚障害者の教育文化が花開き、成長し、あはき法の抜本改正(1988年)を経て成熟期を迎える。
しかし、90年代以降、果実の象徴だった国家試験が「不合格者問題」という新たな課題を呼び起こし、生徒数減少の影が全国を覆うようになった。2000年代に入ると、急増する柔道整復師の影響等で進路環境が厳しさを増す一方、特別支援教育の傘下で理療科の将来像が描きにくくもなった。そして、最低限の目標ラインだったはずの国試合格を「最大の目標」にせざるを得ない教育の現実が、足下に広がる。
こうした閉塞状況が続いたせいか、理療教育全体に内向きの気が漂い始めて久しい。盲界筋の人から時折、「理教連が元気を出さないと」と励ましをいただくが、知らないうちに背を丸めた姿勢になっているのだろう。
還暦の経年疲労もあるとはいえ、背を丸めていては視野も狭まるし気持ちも縮こまる。閉塞感が覆う時代だからこそ、背筋をピンと正して原点回帰の教えにあやかりたい。
佐賀の総会で承認された規約に、「理療科教員の親和を図り……専門教科の研究を推進し……業種の伸揚を図る」の目的文が見える。この「和」を中心においた精神こそ、理教連の原点といっていい。
和といえば、聖徳太子の「和を以て尊しとなし、云々」が名高い。和があれば上下なく議論が興り、議論を尽くせば正しい意見が通って「何事か成らざらん」と説いている。梅原猛氏は『日本の伝統とは何か』で、「この和は足して2で割ったようなものではありません」と述べているように、単に仲良しというよりも議論を興す「和」だという。むしろ「和して同ぜず」に通ずる。
前掲の『二十年史』には丁々発止と渡り合う総会の様子が随所に見られるが、そうした議論が理教連をして、多くの果実を実らせる原動力となった。和の得にほかならない。私が駆け出しの頃の理教連にはこの気風が濃く残っていた。が、しだいに口角泡を飛ばす議論は好まれなくなったきらいがある。というより、時期は定かでないが、規約から「和」の字を削ってしまったことが大きい。
そもそも理教連は、管鍼法を創案した杉山検校和一を抜きに語れない身のはずだが、その名の一字を「規約」という精神規範から抜いたのはいかがだったか。元気が萎えてきだしたのは、その辺りからかも知れない。
そういえば、日本の社会が傾ぎ始めるのは1万円札から聖徳太子が消えた頃からだそうだ。先の書で梅原氏が語っていた。ならば、ここらで10万円札を刷って太子に再登板をお願いし、5万円札には和一を抜擢する。そうすれば、和の得が世の中に広まって、日本の社会も理療教育も元気になるにちがいない。