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会長挨拶・コラム COLUMN

平成26年7月:山尾庸三のこと ― 盲唖に注いだ愛情の謎 ―

第12代会長 藤井 亮輔 先生

伊予の松山は、路面電車と湯の香りが暮らしに溶け込んでいて、昭和の面影を濃く宿している街だ。この「昭和」に明治・大正という時代の片鱗がここかしこで彩りを添えている。その中心に近い大街道の電停を少し入った坂道は、そうした時代を味わえる格好のスポットと言っていい。5月18日、全日本鍼灸学会を終えた足で1年ぶりに歩いてみた。

坂の左手に市街地が広がり右手の新緑は薫風に揺れていた。登り切ると瀟洒な洋館が迎えてくれる。旧松山藩主久松家の別邸で大正浪漫を伝える萬翠荘だ。その裏手に夏目漱石ゆかりの愚陀仏庵があったが土砂災害に遭って今はない。復元を願いながらもと来た道を下ると、坂の下の左手に「坂の上の雲ミュージアム」はあった。

中に入ると、ロビーに続くスロープが階ごとでつづら折りになっている。館名をシンボライズする趣向とユニバーサルを兼ねたデザインなのだろう。斬新さが面白い。だらだら坂を上り詰めた4階には「雲」ならぬ小ホールがあって、明治の小学校の授業風景が上映されていた。

教室は寺の本堂で一見、寺子屋と変わらない。が、「掛図」を使った授業が行われていて、教師と児童の活気に満ちた問答が展開されていく。

「これは何じゃろなもし」と先生。「牛じゃ、牛じゃ」と子どもら。「牛は何のために飼うんじゃろか」。「うちの牛は畑で仕事しとる」、「肉じゃ。牛の肉を鍋で食うと聞いた」、「乳を搾る牛もおるぞな」、「そうじゃ、そうじゃ」。「よう知っとるなあ、みんな」。といった具合である。近代教育の原風景といっていい。

ふと、タブレット端末の教材に興じる現代っ子の群像がよぎった。生きる力が身につくのはどっちだろう……。「進歩」の意味をしばし考えさせられた。

館の資料によれば、「掛図」は米国発の教材で文部省が編纂を進めた。明治初頭には伊呂波図、五十音図、数字図、色図、加算九九図、乗算九九図、博物図など20種以上が整備されていたようだ。

明治になって、「学問ができれば、どういう家の子でも博士にも……教師にもなりえた」から、「貧乏がいやなら勉強をおし、がこの時代の流行の精神だった」(小説『坂の上の雲』より)。この精神を具現化するため政府は国土の隅々に「小学校」という種を蒔く。やがて、それは巨大なエネルギーとなって極東の島国を近代国家へと押し上げるのだが、その推進役を担ったのが「学制」(明治5年)である。

「学制」では全国八つの大学区ごとに32の中学区を置き、それぞれを210の小学区に分けていたから、小学校だけで5万校以上を建てる計画だった。現実には諸事情が許さなかったが、それでも明治後期には2万4000校を数えたという。現在、小学校の数は2万1000校ほどだから、明治の人々の教育に傾けた熱量といい運動量といい、顎がはずれるほどに驚かされる。

小ホールに戻る。映画の題名は「明治の教育改革」。この改革の中で盲唖教育も開花する。その扉を開いた山尾庸三のことを、あれこれ思いながらミュージアムを後にした。

山尾庸三(1837-1917)。明治工業立国の父にして、楽善会訓盲院の祖でもある。

明治4年、工部頭に就いた山尾は盲唖教育の学校設立を太政官に建白した。当道座が解体され盲人の生活問題が浮上した年に当たる。近代国家の建設期、「貧富弱強は人の天性」の思想もあって、殖産興業に結びつく学校建設は大いに奨励されても盲唖救済に理解の得られる時代ではなかった。

その後、山尾は楽善会会員となって訓盲院の設置計画書を起草。木戸孝允(桂小五郎)を通して皇室に下賜金を請願するなど建設資金集めに奔走した。自身も四百五十円を投じ筆頭寄付者になっている。

楽善会訓盲院は建白書の提出から9年後の明治13年、麻布区(山尾の居住地)の盲児2名を入れて開校。その人力車の代金は山尾が負担した。ただ、院の経済基盤は脆弱で頼みの寄付も思うにまかせず、やがて経営は危機に直面する。

楽善会の会長職にあった山尾は「細く長くは続けられるが盛大は困難」と判断し、文部省直轄を願い出る。国も「この種の学校の模範を示す」として認めたことで、明治18年、官営の訓盲唖院が発足。その後、わが国の盲唖教育、わけても鍼按・理療の教育は、アジアの「坂の上の雲」と言えるほどの存在へと発展を遂げる。

山尾は官職を引いた後も、品川御殿山の所有地に桜が咲くと欠かさず盲唖の人々を招いた。工部省は近代国家のインフラ整備のため殖産興業の旗を振るお役所。そのトップが、なぜ盲唖教育にこれほどの愛情と情熱を注いだのか。 v

兼清正徳氏は著書『山尾庸三博』で、「イギリス留学中に(唖)を具体的に目撃して触発された」とのみ述べているが、渋沢栄一の述懐や小説『幕末』にそのヒントが見える。伊藤俊輔(博文)と山尾が誤認情報から塙次郎(塙保己一の四男)を暗殺した事件(1862年)の下りである。詳細は譲るが、故・長尾栄一先生は、「盲目の大学者の息子を殺めた過去を苛む良心が唖に触発されたのだろう」と語っておられた。

ただ、次郎自身は「盲」ではない。「唖」を見て触発されたものが、盲目とはいえ父親というのでは、間接的にすぎないか。ゲスの勘ぐりながら、山尾の中にもう一つ、「唖」にまつわる秘めた何かがあった、と見る。その「何か」で思い当たるのは吉田松陰の弟、敏三郎だ。

敏三郎は生来の唖で、「この弟をいちばん気遣っていたのは松蔭だった。」(『吉田松蔭の唖弟』より)。山尾は敏三郎を直接知らないが、小五郎や俊輔ら松蔭門下の薫陶を受けた彼は当然、その存在を知っていたはずだ。

妓楼で端坐したまま一晩を明かした話が残るほど、山尾は剛健質実の人だった。その人柄から察すると、見果てぬ師への報恩の証として、唖弟を案じて逝った兄の無念を、生涯、自らの悲しみとしたのだろう。そして、残された敏三郎の幻影こそ、唖の職工を見たときの脳裏に去来したものではなかったか。

訓盲院は、明治のエネルギーが押し出した所産の一つだったことはいうまでもない。しかし、山尾の盲唖に注いだ愛情がなかったら、と思う。その深奥は、謎が深い分、魅力に満ちている。門外漢の当て推量を筆勢に任せて書いてみたが、若い先生方の興味ごころを刺激してくれれば、筆も喜ぶことだろう。