会長挨拶・コラム COLUMN
平成27年4月:キャリア教育を考える―支援と世話の視点から―
大学3年生向けの会社説明会が3月1日に解禁された。就職戦線の幕開けである。〈胃袋に落とすおにぎり面接官としか話さない一日がある〉(安良田梨湖)。切なさが漂う就活生の背中に心からのエールを送りたい。一方で、苦労の末に入ったはずの会社を早々に辞めてしまう若者が減らない。
厚労省の調べによると、平成23年3月に卒業した新規学卒者の3年以内の離職率は中卒・高卒・大卒の順で65%・40%・32%だった。いずれも前年より増えている。この割合が7割・5割・3割になった95年以降、若者の早期離職率を「七五三現象」と呼ぶようになった。
これに歯止めをかけるねらいで導入されたのが「キャリア教育」である。家庭や地域の教育力が急速に細る中、職業観・勤労観の育成を学校教育に求めようとする流れだ。その間口の広さからか、横文字を使ってぼかした感はあるが、意味するところは職業人としての土台を育てる教育である。
行政文書でこの言葉が使われるのは1999年12月に出された中教審答申が最初である。七五三現象を学校教育と職業生活との接続の問題と位置づけ、実践的・体験的学習の充実をキャリア教育に求めた。
安良田さんに〈職業は就活生です新宿のハンバーガー屋で夜行バスを待つ〉がある。辛さにめげない強さが評価されて朝日歌壇賞に輝いた。目下、キャリア教育の在り方をめぐって幅広い議論が行われているが、その要諦は、こうした強さや前向きな感性を若者に育むところにある。
経産省の資料によると、企業が求める人材は、専門性に長けた人より、主体性、実行力、協調性、責任感といった社会的な能力や感性を備えた人だそうだ。治療院の経営者を対象にした調査でも同様の結果が示されている。ところが、働く視覚障害者に対する経営者の心象は、この期待から程遠い。
昨年の全国盲学校教育研究大会で報告された某盲学校の調査によると、「依存心が強い」「常識に欠ける」「利己的」「周囲と考え方が違う」などネガティブな印象を持つ経営者が多かった。むろん、この結果が全体を代表しているとは思わない。が、本学(筑波技大)や他校の進路事例を見聞きするにつけ、近年の傾向の一端を表出しているようにも思える。
仮にそうだとすると、視覚障害者に対するキャリア教育のどこに問題があるのだろうか。一つの切り口として、近年よく用いられるようになった「支援」の在り方について考えてみたい。
「支え助ける行為」を指すこの言葉、これまでは経済、途上国、難民、人道、復興といった語に接続して用いられることが多かった。社会的な課題を対象にした政策的用語としての印象が強い。それを、個人の課題に対象を広げたのは介護保険法(1997年公布)である。加齢に伴って生ずる入浴、排せつ、食事等の個人的課題を地域社会で支える言葉に「支援」の語を充てたのだった。
この制度の施行(いわば社会的実験)でお墨付きを得た個人支援の考え方は、その後、障害者自立支援法(2005年)と特別支援教育制度(2007年)を生み牽引した。そして今では、個人の多様な課題の「接尾語」として使われるようになって、「支援花盛り」の感さえある。
一方で日本には「世話」という言葉がある。困っている人を個人ないし地域が支える風土である。「お世話になります」に「お互いさま」が対語のように返される美風は、相互扶助という日本型精神文化の象徴といっていい。そこには、世話をする側もされる側も、相手を一人の人間として尊重し思いやる心が通い合う。
方や、「支援」は、対象が個人であっても人間的な関係性を含まない。見返りを期待しない一方向性の行為である。公的ゆえに公平性を保たなければならないからだ。この点で「世話」と「支援」は似て非なる言葉なのである。介護保険制度の考え方の核心部分をみることでその違いが判る。
この制度は、「支援」を個人の「利益」として捉えることを前提に成立した。応益負担としての保険料や利用料はこの考えに根差す。金銭で物を買う「契約」の考え方だ。お金を払う側にはサービスを選ぶ権利が担保され、社会の側にはそれを保障する義務が生まれる。言い換えれば、行政(社会)の側の義務と個人の権利性を明確にした制度モデルであった。
このモデルを下敷きに特別支援教育制度が設計された。盲学校や聾学校の職業課程にも「個別教育支援計画」の作成が義務として課せられたことで、教科や進路の指導場面では従来より手厚い支援が行われるようになった感がある。見方を変えれば、この言葉の見えざる手(サービスを義務とする本質)に導かれるように、教職員がこぞって支援をぶ厚くしていった側面があったと思う。
一方、障害のある学生にとっては、「合理的配慮」の浸透もあって、学習や就活に必要なサービスを権利として受けたり求めたりすることがしやすい時代になった。その点で、職業教育においても特別支援の一定の恩恵を確認することができる。
ただ、過ぎた支援は往々「受けて当たり前」の利己的な権利観を育む。問題は、こうした高い権利要求に応えるだけの理解や資源が社会の側に整っていない現実があることだ。学校という「支援天国」から社会に出たとたん、要求と現実との落差にとまどう学生は少なくない。某盲学校の調査結果(前述)は、そうした、苦悩する視覚障害者の群像を一面で物語っているように思う。
大切なのは、学生たちの権利意識を削り取ることではなく、現実とのギャップや環境の変化に柔軟に対処できる感性を身につけさせることだろう。根っこを育てる営みに似て、余分な水や肥料はかえって害をまねきかねない。真に必要な時に必要な分だけ手を差し伸べる。一見、距離を置きつつも、暖かく見守る「お世話」の文化にほかならない。
今日(3月6日)は啓蟄。虫たちが地中のぬくもりから這い出る日だ。余寒は辛かろうが、彼らなら移ろう季節をしなやかに、たくましく生き抜くことだろう。その頑張りにエールを送る日は、キャリア教育を考える日にふさわしい。