会長挨拶・コラム COLUMN
平成27年7月:この男がいたからこそ―芹沢勝助先生・生誕100年に想う―
明治から昭和にまたがる時代の倉敷に、革靴と下駄履きの異形で二筋の道を同時に歩んだ男がいた。一筋は、父の起こした紡績所(後の倉敷紡績会社)を大企業に押し上げた実業家の道。一筋は、社会的に弱い孤児、農民、工場労働者の生活改善事業や貧乏学生の支援、医療・文化の振興事業に心血を注いだ社会事業家の道である。「わしの眼は十年先が見える」が口癖だった。
「わし」こと大原孫三郎(1880-1943)。社会から得た財はすべて社会に返す、の信念の生涯は、男の口癖をそのまま題名にした城山三郎の小説に詳しい。
その、下駄の歯の跡は社会事業史に燦然と輝き、志は今も時代の先を行く。倉紡中央病院(倉敷中央病院)、大原奨学会、大原奨農会・農業研究所(岡山大学資源植物科学研究所)、大原社会問題研究所(法政大学大原社会問題研究所)、そして大原美術館。はたして社会は、これらの「遺構」に息づく創立者の理念に追いついているといえるだろうか。近ごろ、ふと思うことがある。
8年も前になるが、男が立てた美術館を訪ねたことがある。絵の価値など皆目わからないが、エル・グレコ、モネ、ゴッホといった巨匠のホンモノに感動を覚えたものだ。この美の殿堂にほど近い倉敷美観地区。美術館を洋の美とすれば美観地区は和の美といっていい。川沿いに軒を連ねる格子窓の町家、川面に映る柳並木、そして美術館。レトロとモダンが溶け合う町並みは美しい。「倉敷は、あの男がいたからこそ美しいのだ」。ストンと腑に落ちた昔日の記憶が蘇る。
この、十年先の見える男が10歳の年、伊予の道後湯之町で百年先を夢見る男が初代の町長に就いた。伊佐庭如矢(1823-1907)、62歳である。「何もしなければ道後は廃る」の危機感が、金刀比羅宮で神職の職にあった男の良心を揺さぶったに違いない。
道後は、名湯の誉れ高い温泉で栄えた土地ではあったが、当時2棟あった入浴施設(本館と養生湯)は、財政難のために朽ちかけていた。その再建を託された伊佐庭は、1890年2月、無報酬を条件に町長に就くと、住民の反対が強かった養生湯の改築と有料化の難事業を1年で成し遂げた。翌92年には年明け早々議会を招集し本館の改築計画を提案した。
総工費13万5千円。小学校教師の初任給が8円の時代である。今なら20数億円にも及ぶ驚天動地の計画に多くの町民が反対した。本館近くの宝厳寺に町民数百人が筵旗を掲げて三日三晩たてこもった出来事は、後の新聞に「道後湯之町人民激昂事件」(1893年)の名で歴史に刻まれた。
人口1500人の町に非難や反対運動が渦巻く中、「100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある。人が集まれば町が潤い百姓や職人の暮らしも良くなる」の信念で説得を続けた甲斐あって、見事な木造三層楼の本館(今の建物)が完成した。男の眼力が確かだったことは、今の道後の街を歩くとよくわかる。
5月の第4日曜日。学会で松山を訪ねた足で30年ぶりに本館に靴を脱いだ。道後温泉駅から続く商店街と本館界隈は、国内外の観光客で休日の朝とは思えない賑わいを見せていた。通された二階の大広間には乱れ籠と座布団がずらり並べられ、土地の言葉で談笑する老人たちの浴衣姿と茶菓の接待に甲斐がいしい女たちの着物姿があった。
楼が完成した1894年4月10日、男の目にはこの光景がくっきりと見えていたに違いない。「この男がいたからこそ・・・」の感慨にひたりながら「神の湯」に身を任せていたら、過ぎし日の湯之町のうら寂しい情景に理療の今の姿が重なった。翁の「何もしなければ廃る」の声とともに。
「理療」。戦後の学制改革の一環で「鍼按」に代わる教科名として生まれた。東洋系の物理療法をもって心身を整える。そんな意味を込めた造語と聞く。戦後の焦土に吹き荒れた「マッカーサー旋風」(鍼灸禁止令)。その危機を乗り越え近代的に再装備した理療科を生んだ盲教育者たちの汗と涙と希望の結晶といっていい。そうした時代の真ん中に青年教師、芹沢勝助(1915-1999)がいた(=敬称略)。
1939年に官立東京盲学校の師範部甲種鍼按科を卒業後、盲学校教師から東京教育大学に転じ講師、助教授を経て1964年に教授に昇進した。その間の1961年には鍼灸師で初となる医学博士を取得しているが、先生の活動範囲は教育・研究の世界だけにとどまらなかった。復興・建設期にあった時代は「この男」に、盲人福祉を追及する大衆運動の道をも歩むことを求めたのだった。理教連を立ち上げ、第3代会長として19年間(1957-1976)にわたり陣頭指揮を執られたのも、こうした時代の要請だったのだろう。
今の業や理療教育を支える制度・慣行のほとんどが、戦後期からこの在任期間にまたがる時期に形づくられている。教員養成のシステムを含め、世界に冠たる理療教育制度は、社会的良心と類まれな眼力を持った「この男」がいたからこそ成しえた偉業だった。『理療の科学』の創刊号(1971年刊)で、戦後からの四半世紀を次のように回顧しておられる。
「行政官庁への要望、陳情等その多くが理療科の質的向上ということより、むしろ盲人福祉との関連に端を発した運動が多かった。しかしそれはそれなりに大きな意義があり理由があったことなのであり、こうした歩みが今日の理療科の発展に寄与した一因であると考えている」。
今に居合わせた私たちには、その歩みの一つひとつの重みを感じ取れる感性が欠かせない。なぜなら、そこに成った果実の多くが、時代の波に洗われ始めているからだ。言い換えれば、次世代に残す新たな果実の作り手に私たちがなることを、時代は欲しているのである。
来年4月から理療科卒業生の大学編入が認められる見通しがついた。ようやく専門学校と肩を並べた。衆議院本会議でその法案が可決した日(6月2日)は、奇しくも先生の生誕100年の月に当たる。1978年夏の理療科教員講習会で自身が提唱された「理療専門学校構想」が現実となったのだ。天上で先生もご満悦だろう。肩の荷をほどき始めているに違いない。
そして、早ければ再来年4月には、理療科の将来に否応なく関わりを持つ「専門職大学」が制度化される情勢だ。仮に実現すれば、将来ビジョンの選択の幅は大きく広がる。その帰路に立って、どの道を選ぶかの作業は100年の計をもって臨まねばならない。
任重くして難しい作業だが、理療教育を担う者が力を合わせて踏み越えなければならない道なのだ。このことを切に願い、小欄の筆を置くことにする。